事例詳細
調査・質問内容
質問番号 | 0000001222 |
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状態 | 受付済 |
質問日 | 2022/02/08 |
田中吉政は岡崎城の整備になぜ大阪から石工を呼んだのか。
図書館からの回答
回答状態 | 公開済 |
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公開日 | 2022/04/08 |
関連質問番号 |
【資料1】「吉政は城下町整備にかかわる堀や石垣の築造に必要な石工を河内や和泉から招き」との記述あり。
【資料2】「この大規模な土木・建築工事には石垣や構造物の基礎、土台を築く石工を必要とした。…(中略)…関西はこうした工事の先進地で、河内や和泉(大阪府)の石工は城の石垣や土台を築く優れた技術を身につけていたであろう。」(「関西から石工を呼び寄せた根拠となる資料はない」)との記述あり。
【資料3】「田中吉政が城主となった天正十八年(一五八〇)東海道を城下に導き本格的に町を整備した。その時、泉州岸和田の石工、春木某一党が招かれて石工事に従事し」との記述あり。
【資料4】「田中吉政が城主となり城下町を整備した時、必要な石工を和泉・河内(現在の大阪)の国から隨念寺の門前に住まわせ保護した」との記述あり。
【資料5】「田中兵部大輔吉政が城主となった天正18年(1580年)に、東海道が城下を通って城下町が整備された。この時、石垣や堀の築造整備に必要な石工(いしく)を河内の国から招いて」との記述あり。
【資料6】「岡崎城主田中吉政が和泉・摂津から石工を招いて石垣などを築かせたことに始まるという説があるが、はっきりとした証拠・文献資料もなく不確定と言わざるを得ない。」「近世岡崎石工の系譜について田中吉政による摂津・和泉から招請という伝承をそのまま信ずることはできないが、三河地域で近世前期から和泉石工などとの交流があったことは資料で確認できる。」との記述あり。
参考文献
タイトル | 注記 |
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石都岡崎 石と共に生きる | 【資料1】p.14 |
石都岡崎 | 【資料2】No.11 |
石屋史の旅 | 【資料3】p.213 |
うめぞの風土記 | 【資料4】p.108 |
岡崎石工品の手引き | 【資料5】p.2 |
岡崎市史研究 第21号 | 【資料6】p.33-34 |
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