事例詳細

調査・質問内容

質問番号 0000001369
状態 受付済
質問日 2024/12/01

奥平氏居城の亀山城は作手城と同一の城か。
信昌の出世により亀山城を改築し、作手城と呼ばれるようになったのではないか。

図書館からの回答

回答状態 公開済
公開日 2025/02/04
関連質問番号

【資料1~3】より、亀山城は奥平貞俊が現在の作手に築城した。その後貞能、信昌が石筒ケ根坂後に長篠城を信長より給わり移った。→長篠の戦いの後、信昌は城の不利を家康に説いて、平井村郷ヶ原の原野(現在の新城市東入船)に新城を築いた。
【資料4】に亀山城、作手城の記載あり。ただし両城との関連の記載はない。

また【資料1】p.10【資料5】p.230-232【資料6】p.6-7には歴代城主藩主が表となって載っている。

※多くの資料に「作手城」が出てきますが、文脈から考えると、亀山城=作手城であり、同じ時期に異なった呼び方をされていたようです。なぜ違う呼び方をしていたのかはわかりませんでした。【資料1】p.7と【資料5】p.280に「亀山の名称の由来は定かでない」とあるので、築城されていた作手村から作手城といわれていたのかもしれません。
亀山城は貞俊から貞能までの五代が居城し、信昌以降は移城しています。【資料2】p.720に亀山城はその後信昌の第四子松平忠明が修理在城したとあります。

参考文献

タイトル 注記
奥平氏と額田 【資料1】p.6-7、10
作手村誌 (1960) 【資料2】p.720
南設楽郡誌 【資料3】p.483-484
日本城郭全集 第7巻 【資料4】p.87、139
作手村誌 (1982) 【資料5】p.230-232、280
長篠戦史 第二分冊 【資料6】p.6-7

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